セゾンとは?/ キャッシュワン
[ 639] セゾングループ - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
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堤康次郎が創業した「西武企業グループ」を母体とし、康次郎の死後、流通部門を継いだ次男清二が西武流通グループとして自立。のち西武セゾングループと改称、多角化はさらに進み「西武」を外してセゾングループと名乗ることで独立色を鮮明にした。 その根底にはコクド(現・プリンスホテル)・西武鉄道を継承した異母弟堤義明との確執があるとされるが、現在は共通カードとしてセゾンカードが使える。 1980年代までの急激な拡大成長の一方、1990年代初頭には平成不況を受け早くもリストラに着手したことで、加盟社数は非常に流動的であるが、最盛期の時点をもって12基幹グループ・約100社。 歴史順に、西武百貨店・西友・朝日工業(西武化学工業)・西洋環境開発(西武都市開発)の4基幹グループを母体とし、「生活総合産業」宣言によりクレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ(レストラン西武・吉野家D&C・ダンキンドーナツ等)・朝日航洋・セゾン生命保険(西武オールステート生命保険)を新たな基幹企業に選定。 さらにバブル景気を迎えインターコンチネンタルホテル・大沢商会、ようやく利益貢献に回ったパルコ、コンビニ時代を反映するファミリーマートが加えられ12グループ体制。 一代で西武の礎を築いた父・康次郎は敏腕な実業家であったが、幼き清二の眼差しからは、まるで金と権力に溺れた狂人として映った。多くの愛人を囲い、交互に通いを繰り返す奇妙な関係。同じ兄弟で異にする血筋。父の権力をめぐる異質な家族像──。清二はやがて自らの出自を悟り、戸惑い、父の実像を知るほど嫌悪を抱いた。 父には絶縁を願い出て、東京大学在学中に左翼運動に希望を託し日本共産党に入党。革命を夢想するも挫折、さらに肺結核を患い入院生活。堤家の名誉を恥じる父は、清二の身分を隠し西武百貨店書籍コーナーの店員として働かせる。 こうした絶望と漂流の中から、詩を綴り始め、芸術表現から自らの実存を模索した。28歳の若さで西武百貨店取締役店長に就任してもなお、詩人・辻井喬(ペンネーム)の立場からは、文化を破壊へと追いやる商業主義を批判し、だがしかし仮の自分である商人・堤清二との矛盾や抗いがたい現実に苦悩するのだった。 父の帝王学は「土地を守るべし」。不動産の西武であって、流通など付属品に過ぎない。西武ストアー(のちの西友、1956年)の展開や、日米親善のロビー活動の一環でしかなかった米国ロス進出、いずれも失敗であった。 消費者目線ではない父の手法では成長できない。まずは西武百貨店の出張店舗であった「西武ストアー」を、スーパーマーケット業態の「西友ストアー」としてチェーン展開。 高度経済成長期と連動し急激に店舗を増やす。池袋西武も段階的増床により都内最大の百貨店に。そんな折、父の急死(1964年)で相続問題が浮上。 父は病弱であった清二など、もともと跡継ぎ候補から除外しており、弟の義明がいったんは相続したが、義明は不遇を受けた兄に一定の配意をし、西武の本業ではない流通部門を清二に渡した。 偉大な父なき後は「兄弟会」を設置し秩序の維持に努めたが、父の七回忌の場で義明との「相互不干渉」の確約を交わし、西武二分裂が確定的となったことで「西武流通グループ」を旗揚げ(1971年)。 ただし、西武百貨店が西武ライオンズのユニフォームスポンサーであったり、ライオンズの優勝セールをセゾングループ各店で行っていたこともあり、完全に無関係であったわけではない。 1969年、撤退した「東京丸物」を継承する形でパルコ第一号店を池袋に開設。パルコに限っては、奔放な性格であるが信頼を置いていた増田通二に任せ、運営には干渉せず自由放任を与えた。 1973年の渋谷進出にあたっては、若者文化やアートとの協調を掲げ、従来になかったミックス型フロア構成とバラエティ感覚で挑み大反響を呼ぶ。この渋谷パルコの成功体験で確信を得たうえで、いわゆる「文化戦略」がスタートした。 ──百貨店から先端の文化・情報を発信、客はまるでディズニーランドを回遊するように、渋谷に点在するギャラリーや劇場を巡って知的好奇心を満たす。快適なアメニティをロボットやニューメディアがバックアップしつつ、活動主体はあくまで人間本位。優れた文化を生む自由な社風と、互いに束縛を受けない緩やかな企業連鎖。重複事業までも認め、競合することが逆に発展的効果を促す── こうした数量的ではなく "文学的" 経営ビジョンは「感性の経営」と呼ばれ話題となった。タイミングは絶妙だった。日本の誰もが物質的豊かさを享受し、政治的無関心が出現し始める1970年代。これからの時代は、何か目新しいコンセプト、カルチャーやエンタテインメント性こそが欲望される。 こうして文化全般をポストモダン的に展開するセゾン系独特の手法は、1980年代にパルコ系「アクロス」誌が提唱した新人類の台頭によって支えられ、先鋭的ブランドイメージを築いた(その根底にあったのは堤清二の左翼性、消費を通じた〈啓蒙〉や〈解放〉である)。 池袋本店は全国のモデル店として、文化を軸に実験的な改装を重ね、また他方では、先行開発した渋谷エリアが若者の街として急浮上し、磐石な二極体制ができあがった。 池袋では最大規模の売上を稼ぎ出しつつ、若者文化の情報発信源と化した渋谷からは、のちに「渋谷系」やストリート系、女子高生文化といった数々の社会現象が生まれ、若者消費を牽引した。 しかし、一連の急展開は、名門堤家の信用力をバックにつけた銀行融資に依存したものであり、あくなき投資で見かけ上の規模は膨張を続けるものの、利益率は著しく低いまま借金体質が続いた。 「文化の西武」を如何なく発揮させるには、広告から売り場の末端に至るまで外部に依存しない独自展開が必要であった。 池袋西武にセゾンの文化拠点として「セゾン美術館」(西武美術館、1975年)を併設。単なる集客狙いの催事場の域を超え本格的な展示に挑み、従来扱われなかった現代アートを中心とし独自の路線を走る。 更に池袋店本館には数多くの文化スペースを設け次々に新鮮な企画が打ち出された。一方でパルコ系の文化事業はそれ自体がファッション商品であると位置づける。 現在六本木ヒルズが建つ場所に在った「ウェィヴ」(ディスクポート西武、1973年)は、当時まだ入手困難であった音楽を集め、新たなジャンルを開拓した。 1975年に大型書店の「リブロ」(西武ブックセンター)、アート系書店で美術品も扱う前衛的な形態であった「アール・ヴィヴァン」(ニューアート西武)が発足。「パルコ出版」や「リブロポート」、「トレヴィル」などを通じ、決して販売部数は期待できない本格的な美術書や文芸書を独自に出版。 西友は米タイム社と提携し「西武タイム」(現・角川・エス・エス・コミュニケーションズ)で情報誌を展開。これはのちにチケットセゾンを吸収し紙面と連携。 1979年には、いわばアングラ系小劇場・ミニシアターの先駆け「スタジオ200」、学校外から知識・教養の普及を図る「コミュニティカレッジ」、日本初の総合スポーツ店「スポーツ館」を開設。 西友はスーパー業界では劣勢であったため上質な売り場提案による差別化を検討。その一環で開発されたプライベートブランド・無印良品(1980年)が異例のヒット。また脱チェーンストアとして、「西武」の名を冠し、立地ごとにカスタマイズされた西友独自の百貨店業態を模索(のちのLIVIN)。 英国のサー・テレンス・コンランとの提携による池袋西武「ハビタ館」より家具市場に参入(1982年)。映画配給・制作に乗り出した「シネセゾン」(1984年)は、旧態依然としていた映画館運営の常識を覆す斬新な取り組みが見られた。 倒産した大沢商会を傘下に収めたことで(1984年)、国内高級ブランドのホールセールをほぼ独占、ファッション総合商社の西武が完成。演劇の場として銀座セゾン劇場(1987年)を開設。 日本はバブル景気崩壊から90年代長期平成不況期に入ると、イメージ戦略は必ずしも消費と結びつかなくなり、百貨店離れ・スーパー離れを引き起こした。高級消費財や娯楽への消費は抑制され、脱・流通業として手がけられた不動産・ファイナンスは多額の負債を抱えた。 カリスマ的な西武の堤家の存在を暗黙の信用担保とした体質、堤清二氏のワンマン体制、地方の不採算な店舗など、華やかなブランドイメージの影で覆い隠されてきた問題は、一気に明るみに出た。堤清二が代表から失脚(1991年)して、西武百貨店に復帰した和田繁明は、店員の顧客への対応の悪さなどを「西武百貨店白書」に赤裸々に記述した。 こうして本業が揺らぐ中、不動産開発の西洋環境開発とノンバンクの東京シティファイナンスはともに多額の負債を抱え、1990年代のセゾンはリストラを断行した。金融当局の意向は強く、負債返済のため持株売却などにより各社はグループを離脱。2001年、最後の懸案であった西洋環境開発の清算をもってセゾングループは事実上、解散した。 セゾン系各社は解散により資本的根拠は薄くなったが協力関係は強く残る。西武百貨店を傘下に置くミレニアムリテイリングは、西武鉄道との再合流を目指すも、セブン&アイ・ホールディングスと電撃的に経営統合。一方で、西武沿線における協業を進めようとしている。なお2006年9月に西武グループとクレディセゾンは「SEIBU プリンスカード」の発行を開始した。 百貨店業。 →そごうとともにミレニアムリテイリングの傘下に。ミレニアムリテイリングもさらに2006年6月1日付でセブン&アイ・ホールディングスの完全子会社化し経営統合した。 クレジットカード業(旧・緑屋)。現在も西武百貨店が一部出資。 →ユーシーカード(みずほフィナンシャルグループ傘下)と全面的な事業統合を発表。 1970年にダンキンドーナツを展開。後に、同じセゾングループのディー・アンド・シー(後に吉野家と合併して吉野家ディー・アンド・シー)が店舗展開した。 →セゾングループの中核企業であったが経営破綻し2001年に特別清算。セゾングループ解体の直接的な引き金となった。「生活総合産業」を掲げ、それまでの流通グループの域から脱するという特別な使命があったが、セゾンを解体に導いた。 1989年に西友から独立した。全国に「無印良品」を展開。ファミリーマートと株式の持ち合いをしていたが、1998年に伊藤忠グループがファミリーマート株を取得したため、殆どの株式を手放したが、2006年3月に株式の持ち合いを発表した。旧セゾングループの中では、ファミリーマートとクレディセゾンが主要株主。 西武百貨店の雑貨スペース「Loft」が株式会社化し分社独立。現在、西武とそごうの持ち株会社ミレニアムリテイリング傘下。 西武ブックセンターとして池袋西武に誕生、主にセゾン系テナントとして拡大した書店チェーン。アバンギャルドやコンテンポラリーアート、最新の洋書などを扱う流行の感度の鋭さから、ABC(青山ブックセンター)と並び称される存在であった。 →日本出版販売の傘下。 シェルガーデンが展開する高質食品スーパー。後に西武百貨店傘下企業となり、1995年の池袋西武への出店を機に『ザガーデン自由が丘』と改名。自由が丘店を皮切りに西武百貨店などに出店。現在、7&Iと西武百貨店が株主。そごうにも出店している。 小田急のカリヨン館に影響されて西武が渋谷に建設した「母と子供の百貨店」。現在は閉店しタワーレコードになっている。 ファーストフード業。牛丼チェーン「吉野家」などを運営。西洋フードシステムズ子会社。西洋フードシステムズから譲り受け、ダンキンドーナツも展開している。→伊藤忠グループが株式取得。 西洋フードシステムズや吉野家ディー・アンド・シー傘下で店舗展開した。1998年に業績不振で日本から撤退。 1986年、英国の高級車ジャガーと西武百貨店との共同出資で日本法人「ジャガージャパン株式会社」を設立。→1999年、西武百貨店が資本を撤退し、ジャガー・カーズ当時は単独で展開した。 フランスの高級車シトロエンの輸入元。 →シトロエンが「シトロエン・ジャポン」を設立して直接販売に乗り出したことにより清算。 抵当証券業・消費者金融業(旧・西武抵当証券)。ほかに旧セゾングループ数社に出資するなど投資会社の一面もある。住宅金融専門会社(住専)問題で損失を被った後、クレディセゾンの完全子会社となり、「SAISONのローン百選」という名称の消費者金融業が主である。 損害保険・生命保険業(旧・オールステート自動車・火災保険/西武オールステート生命)。米国オールステート(2000年日本撤退)との合弁会社で1997年にセゾングループの傘下となる。 →2002年にセゾン生命はGEエジソン生命(現・AIGエジソン生命)に吸収合併され、セゾン自動車火災保険は同年損害保険ジャパンと業務・資本提携を行い子会社となる。現在も保険募集業でクレディセゾンなどと提携関係が続く。 西友子会社のノンバンク。消費者金融・モーゲージローンなどを積極的に行った結果、1999年頃から多額の不良債権が発生し経営が行き詰まり、親会社西友の決算大赤字の発端となった。 「SEIYUキャッシュポイント」という名称の共用現金自動預け払い機を設置していた。 →ローンスターグループに買収され、東京スター銀行の子会社に。 SSコミュニケーションズ→2001年に角川書店グループに売却、2005年に角川SSコミュニケーションズに社名変更。チケットセゾンの実質的な後身であるエンタテインメントプラスに角川グループホールディングスが5%出資しているのはこの関係である。 西武百貨店旅行事業部ほかセゾン系レジャー部門が母体。現在はパチンコ店「コンサートホール」を展開。クレディセゾン系。セゾン系テナントビル「ザ・プライム」にも入居。渋谷ザ・プライムにほど近いONE-OH-NINE跡地に、東急グループがマルハンを誘致したことはバブル期を象徴。 グループ内に散らばる旅行代理店を集約。上記ヴィーヴルから一部分離、さらに西友旅行事業部、太平洋観光が統合。 →JTB傘下。マルイ旅行センターを吸収。 旧・朝日ヘリコプター。かつて池袋西武屋上は世界最大のヘリポートだったことも。西武所沢工場に整備所をもった。 →現在はトヨタグループ。 堤清二が私財で設立。自身が好んだ演劇を中心に支援活動。現在理事長を務める。セゾングループ各社が支援。 旧朝日化学肥料が旧日本ニッケル(解散)の鉄鋼部門を吸収合併してできた西武化学工業が前身(当時、西武鉄道グループの一員だった)。 その後セゾングループから離れるなどして、現在は阪和興業や三井物産等の商社各社、アサガミ、日本マタイ等の資本参加を受けて見事再生、JASDAQに株式上場を果たす。 上記会社と同じく旧西武化学工業が前身。後に農芸・鉄鋼の両部門を朝日工業として企業分割、現社名へ改称。その後、長らくセゾングループの一員となっていたが現在は同グループから離脱している模様。 さくら観光が前身で、その後三井物産の資本参加や東証への株式上場、及び元子会社(旧東海観光事業)の吸収合併を経て現在の東海観光へ社名変更なる。その後、同社の経営権を掌握していた三井物産が同社グループ内のレジャー事業の見直し等から、当時の西武セゾングループ(現在のセゾングループ)各社への株式譲渡をもって同グループの傘下に入る。 平成初期のバブル崩壊後に経営難に陥りセゾングループが資本撤退すると、97年に新たなパートナーとして香港(当時、イギリスの直轄植民地。現在は中国へ返還され、同国の特別行政区となっている)における不動産・レジャーの大手「ファー・イースト・コンソーシアム・インターナショナル」(FECI)のグループ企業を親会社に迎え入れ、不動産事業へ進出。 しかし、2年経過しても経営状態があまり良くならなかったためFECIグループが保有する同社株式を市場へ大量売却、同グループから事実上の資本独立を余儀なくされる。 以後、今日まで多数の海外子会社を通じ国内にある多くの賃貸不動産を取得するなどして、自力での経営再建を続けている模様。 これを解消するために独自研究は載せないを確認した上で、ある情報の根拠だけではなく解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください(テンプレート)。 経営者自らが明確なビジョンを持って全面的に文化事業に取り組んだ、大企業としてはおそらく唯一の企業グループであり、企業メセナの先駆けであった。一方で、ポストモダニズムが自然消滅していったように、時代の流行に踊らされていた面も否めず、その評価には賛否両論がある。堤清二は自覚的であったが「文化戦略」は、結局のところ広告の仕掛けに過ぎなかったという見方もある。しかし、資本主義とは広告と切り離しては、存立し得ず、また時代(=消費者、マスメディア)が求めていたことでもある。今から見れば、時代とセゾンが表裏一体で生み出した文化・社会現象であったといえよう。広告戦略についていえば、同時代で引き合いに出されるのがフジテレビの娯楽路線(楽しくなければテレビじゃない)で、いずれも「80年代的空虚さ」と検証されることがある。しかし、セゾンが日本流通史に残した足跡は大きいと見るのが一般的である。 |
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